月と背中

今年の正月に目にした、なんでもない光景が忘れられない。



郊外の街はずれにある温泉施設に行ったのは、丁度、陽が山の端に落ちた頃だった。
わたしは、他の湯より一段高い位置に設置されている、露天の風呂釜に浸かった。


頭上に月があった。
薄い鱗雲の向こうに、じんわりと滲むように白く光っている。


別の方角の、少し低い位置には星。木星だろうか。
わたしは宇宙が好きな癖に、星座にはあまり詳しくない。


かなり長い時間、月と星を見ながらぼーっとしていた。
どうやら釜は湯温が高いことを理由に敬遠され気味のようで、まるで誰も入って来ない。
湯釜から体を少し出すと、わたしの体から白い湯気があがる。
それが湯釜から立ちのぼる白い煙と一緒になるのが楽しいなと思って、体をお湯に沈めたり、出したりしていた。


体格の良いおばさまと、小さな女の子の2人連れがやってきた。
おばさまは最初女の子に数を数えさせたりして遊んでいたのだが、ふと空を見上げて、「あ、ほら月だよ」と立派なダミ声で言った。
「ホントだー!!」
「きれいだね。あっ、あっちには星だよ、見てご覧。」
「ホントだー!!!お星様ー!」

2人とも月をよく見ようとしてか、体は完全に湯から出ている。
大きなでっぷりした背中と、痩せた小さな背中。それぞれから白い湯気が流れて、深い紺色の空に溶けていく。


ただ、ただそれだけの光景だ。この話にオチはない。解釈すべき意味もない。
ただ、ただ。
2つの背中の後ろで、わたしは泣いた。